手くらがりこまかき楷書かきづらし冬至の日脚つまり切りたり/岡 麓
柑子の実すでに黄ばみてうす日さす冬至の午後の庭のひそけさ/吉井 勇
棲みすてし野をかへりみる事もなし冬至(ふゆいた)るべく草か枯れなむ/斎藤 史
毎年この時期には同じことを言っていることに気がつきますが、今年も残すところ早一週間余りです。今日12月21日は冬至...、二十四節気のひとつで陰暦十一月の「大雪」の後の十五日目。昼が最も短く、夜が最も長い日です。 一陽来福といって、粥や南瓜を食べる習慣があるようですが、いまどれだけのご家庭でこれら習慣が続けられていることでしょう。一年がのっぺりとしていて、昔ほど日日の季節感を感じられなくなってきている令和のいま、レトロな冬至の歌を探してみました。自然がより身近であったとき、微かな自然の変化に歌が生まれたのでしょう。
1.現代ならはハロゲンランプを点けてハズキルーペ(チョッと古い?)でもかければすむことですが、この短歌が詠まれた昭和十年代では日脚が短い冬至は物書きにとってさぞご苦労が多かったことでしょう。
2.冬至の日の昼過ぎ、うす日が差す庭は物寂しく、柑子(こうじ)蜜柑の実はもう黄色くなってきている。
この「ひそけさ」(形容詞 ひそけし)という言葉はチョッとした曲者らしく、普通の国語・古語辞書にはなかなか載っていない。意味としては、「ひそかである。目立たぬように,もの寂しい様子。」であるが、どうやら明治になってから歌人たちが使いだしたかのような短歌語(?)のようである。とくに多用した歌人は釈迢空。似た言葉に「かそけさ」(形容詞 かそけし)がある。
3.住んでいた土地をはなれ顧みることもなくなった。冬至となり草木は枯れているであろう。なぜ住んでいた土地を離れることになったのか顧みることはない、と言いつつも歌に詠んでいる心境。その枯れた木木や草。さみしい冬の情景である。以前読んだ片山廣子の歌集「野に住みて」のなかにもよく似た情景の歌があったように記憶しているが、どれかは思い出せない。
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